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人生を通してたどり着いた鍼灸への道

気持ちに寄り添い、あなたを手助けできる鍼灸師であり続けたい。

鍼灸院天空 中林

子供時代:外側と内側の狭間で

子供の頃は、周りから明るく活発に見られるタイプでした。髪型はショートカットで、真っ黒に日焼けし、暗くなるまで遊んでいるような子供でした。学習塾の夏期講習でもらった賞は「よく日焼けしたで賞」でした。学習塾で遊んでいたことを表彰される、そのように活発な自分のことも好きでした。
明るく活発なイメージは、親や先生が期待することに本能で反応していた部分もあったように思います。「活発に見られる」と表現したのは、そのためです。

小学生のとき
一方で、家で一人で遊ぶのも好きでした。一人で思いに耽り「命ってなんだろう」と子供ながらに考えていることも多く、可愛くない部分もありました。
子供は大人を質問攻めにすることがありますが、私も同様に、不思議に思うことや、わからないことへの知的欲求が強い子供でした。どうして命について考えるようになったのかは、よく覚えていませんが、とても単純だったように思います。

生き物が好きで、蟻の行列をじっと見ていることもありました。ノラ犬と遊び、何度も連れて帰っては怒られていました。蟻や犬も生きてると思い、どうして私は蟻や犬じゃなくて人間なのだろう、どうしてこの姿でうまれてきたのだろうと考え始めました。そのうち、どこで聞いたのか輪廻転生のことを知りました。

そのことを繰り返し考えるうちに、「どうやら、魂は学ぶために生まれ変わるようだ」と思うようになりました。それぞれの魂が学ぶために生まれてくるから、それぞれの姿が違うのかと思いました。命と魂の違いはよくわからないままで、何を学ぶのかもよくわかりませんでしたが、腑に落ちて納得していました。それが小学校低学年の頃だったと思います。このような考えを持ち始めて程なく、祖父が急死し、近親者の死を人生で初めて経験しました。大人たちが悲しむのを傍目に見ながら「おじいちゃん、お疲れさま。帰っていくんだね」と心の中で話しかけていました。魂が帰るだけなのにどうして泣くんだろう、大人になったら自分も泣くようになるのだろかと考えていました。本当に可愛くない子供だったろうなと思います。

明るく活発な自分も好き、しかし一人で思いに耽り、子供ながらに哲学的なことを考えるのも好きでした。

内在する二面性が複雑に絡み表出するため、どれが本当の私なのかわからないという思いを抱えていました。

中学校時代:自分の気持ちを伝えるのに苦労したあのとき

中学校では、ハンドボール部に所属しキャプテンに指名され、明るく活発な子は続きました。ある日の休憩時間に、何人かの友達がお話をしに来てくれて、口々に色んな話をしてくるということがありました。

様々なお話を一度にされてしまい、私のキャパは完全にオーバー。「そんなに色々話されてもわからへん!」と大声で感情的に反応していました。瞬間的に「やってしまった」と思いました。友達は静かに離れていきました。
その後も友達とは仲良く過ごしましたが、「やってしまった」と思いながら謝らなかったことが後ろめたくて、卒業するまでどこか距離を感じていました。友達は何とも思っていなかったかもしれないですが、私のなかで後ろめたさが消えなかったのです。この出来事は、今でも時折思い出します。
冷静になって考えれば、「一度に話されてもわからないから、ひとつひとつゆっくり聞かせて」と、自分の気持ちと、どうしてほしいのかを素直に伝えればいいだけなのに、感情的になってしまいました。そのうえ謝りもしなかったことで、私のなかにしこりが残りました。私は今でも気持ちを伝えるのが苦手です。

感情的に反応することは少なくなりましたが、それでも時にはそうなることもあり、その時に「未だに、あの頃から何も成長できていない」と感じます。

高校時代:やりたいことを目指す。そこからの挫折。

高校では、運動部に入らず、勉学中心の生活でした。子供の頃からの知的欲求は続いており、好奇心が旺盛でしたので、進路選びは難航しました。初めは、大きな鉄の塊の飛行機がどうして飛ぶのかに興味を惹かれ、航空工学を目指しました。次に、サイエンスフィクションの映像美術に魅せられ、美術大学を目指してデッサンをする日々が続いたこともありました。最終的に、幼少期からずっと動物が好きだったことから、獣医師になると決め、その道を目指すことにしました。

大型動物に触れながら学びたいという理由から、帯広畜産大学を受験したいと両親に申し出ましたが、その思いは敢えなく却下されました。

「やるなら北海道大学を目指したらどうか」というのが、両親の思いでした。当時の学歴社会を考えれば、両親の思いも仕方がなかったのでしょう。何度か帯広に行きたい気持ちを伝えたものの、根拠のない自分の直感に自信を持てず、人生経験豊富な親の意見を聞くことを選びました。受験制度の関係から両方を受けられなかったこともあり、北海道大学と滑り止めの大学を受験することにしました。

進路を絞ってからは「親がそこまで言うなら、やってやろうじゃないか」と気持ちを切り替えていたつもりでした。しかし、獣医師になるための受験結果は全て不合格。
滑り止めの大学には合格できるだろうと軽く考えていたのも、私の甘さでした。きっと私が滑り止めとして考えていた大学は、優秀な方々の滑り止めにもなっていたのでしょう。私も両親も、私の能力を過信していたとしか言いようがありません。自分の実力を思い知りました。

社会人:♪人生いろいろ♫

さらなる滑り止めとして、私立大学の別の学部や、飛行機への興味から航空管制官になるための航空保安大学校も受験していました。

航空保安大学校の入学試験は、国家公務員の採用試験でした。そして、そのうちの数校から合格が届いていました。両親は、私の獣医師への思いを理解してくれていましたので、決して裕福ではない環境でしたが、浪人しても構わないと言ってくれました。

浪人、私立大学、公務員という三つの選択肢で悩みました。それはもう本当に悩みました。一度は浪人しようと、航空保安大学校へ辞退の電話をしました。
その電話で、「この仕事は、あなたに向いているように思いますよ」という言葉を掛けていただき、自分では気付けない適正というものもあるかもしれないと思いました。

最終的には、航空管制官の道を選び、公務員になることを選択しました。両親も私の決断を尊重してくれました。高校時代の初頭に心に思い描いていた飛行機に関係する仕事にご縁があったのだと思います。そして私は転勤族になりました。

航空管制官時代
当時は、航空保安大学校で2年間基礎的なことを学び、全国の職場へ配属されるという仕組みでした。
私は、空港へ配属されました。好きな環境に身を置くことができ、誰かのお役に立てるというやりがいも感じていました。航空機が飛び立つ姿、無事に着陸する姿を見るのは、今でも心が晴れやかになります。当時、私が体感していたストレスはほぼ皆無でした。職場の先輩方に、時にはユーモアを交えながらも真剣に仕事を教えていただき、仕事に行くのが楽しみでした。それでも、初めての環境や、夜勤を含むシフト勤務から、心身に無理がかかっていたのだと思います。そして、業務では瞬時に的確な判断をし、確実に1回でパイロットとコミュニケーションを取る必要があります。それらを考えながら、何度も繰り返していくことで、自然とできるようになっていきます。

しかし、自然とできるようになるということは、知らないうちにストレスを積み重ねていくことにもなるのでしょう。仕事を始めて数ヶ月後、体がピリピリと痛くて洋服が着れないほどになりました。溜まっていくストレスから免疫力が落ち、帯状疱疹を発症していました。

ストレスから襲いかかってくる「難聴」

帯状疱疹の治療後は快適に勤務していましたが、今度は人間関係への苦手意識が生じ、逃げるように転勤を選んだこともありました。

転勤先では心機一転し、また楽しく過ごすことができました。しかしある時、帰宅してテレビをつけると、そこから流れてきた歌手の歌がとんでもなく音痴だったことがありました。
「え?これでテレビで歌えるの?」と、二度見するほどの音痴です。しかし、少しずつ何かがおかしいと気付き始めました。話し声が二重に聞こえたのです。少し怖くなり、ひょっとしておかしいのは自分かもしれないと、部屋にあったCDを流してみました。

予感的中、そのCDも音痴でした。おかしいのは私であることが確定し、どうしたらよいのかと不安になりました。インターネットで調べたところ、難聴は対処が遅れると治療が難しくなるとありましたので、できるだけ早く耳鼻科へ行くことにしました。

ストレスからの突発性難聴でした。またしても気付かぬうちに、ストレスが積もっていました。お薬のお陰で聴力は無事に戻りました。しかし、それから今に至るまで、私は難聴を何度も繰り返すようになりました。

また別の時には、部屋で突然立てなくなりソファに倒れ込んだこともありました。立ちくらみではなく、はじめての本格的なめまいでした。しばらく横になれば治まるだろうとゆっくりしてみましたが、時間が経つほど悪化していきました。こんなにも辛いものなのかと思いながら、悪化していくめまいが怖かったです。今思うと、発症が夜だったうえに、症状の重さを考えれば救急車を呼んでいいレベルだったかもしれません。

しかし、当時は救急車悪用のニュースがありましたので救急車を呼んでいいものか悩んだ挙げ句、タクシーで救急病院へ向かいました。道中も座っていられず、ずっと横になっていました。診断はめまい症。あまりにそのままの名称で「そんな病名があるの?」と少し笑ってしまいました。診断書に記載がありませんでしたので、何が原因だったのかはわかりません。視界がグルグル回って気持ちが悪いなか、寝た姿勢でゴロゴロ転がるという運動は拷問のようでした。

振り返ってみると、楽しく過ごしているつもりでも、ストレスが知らない間に積もっていき、体が悲鳴を上げるということを繰り返してきたのだと感じます。

人生色々ある中で、たどり着いた考え方

いくつかの体調不良がある一方で、生活面では結婚し子供を作らないまま時が過ぎました。子供が欲しいと思って結婚したのですが、いざとなると命を産むことの大きさを考えてしまうという、幼少期からの考えすぎる悪い癖が出ました。

産むことが怖いという思いや、仕事への責任感もありました。それでも、やはり子供は欲しいと思うようになり、年齢的に遅くなりましたが40代を過ぎた頃から不妊治療を始めました。

当時、夫とは単身赴任の状態でした。その状態では不妊治療が難しく、また私自身が仕事での技量維持に難しさを感じ始めていた時期でもあったため、辞職し、不妊治療に専念することにしました。その時に初めて鍼灸の施術を受けました。

鍼灸の様子
手足を押されると、お腹の硬さが取れるのが不思議で興味深かったです。お腹の硬さは、東洋医学で瘀血(おけつ)と呼ばれる滞りのようなものです。それを解消して血流を良くすることで、子宮や卵巣の状態を改善しようという鍼灸を受けていました。

自宅では、週に3回ミトコンウォークをし、食べ物に気遣い、足に温灸器をあてて体質改善に励みました。ヒートショックプロテインという物質を体内に増やす方法も試していました。

病院では、早い段階で採卵を始め顕微授精を何度もしました。同時に排卵検査薬を使いながらタイミング法も試していました。病院を変えてみたこともありました。初めて着床した時は、心から嬉しくて涙が流れました。
しかし、私の場合は心拍を確認できず、その後も残念ながら授かることなく不妊治療を終了しました。そして、最終的には方向性の違いから離婚を選択しました。

さてどうしよう。
私は生きていかなければいけない。
残りの人生をどう生きようか。

いろいろと考え、「生きていくなら、笑顔でいたい、幸せでいたい」と思いました。

そして、私は誰かのお役に立てた時や喜んでもらえた時に幸せを感じるということに気付きました。

そういえば、どの仕事をするときも、どうすればお役にたてるだろうということが、常に私の根底にあったことも思い出しました。
喜んでもらえて私も幸せを感じることができる、そんなWIN-WINな人生を送りたいと思い至りました。

では、どうしたらお役に立つことができて、かつ喜んでもらえるのか、それが仕事になるようなことで残りの人生をかけて続けていきたいと思えることは何なのかを考えました。

ふと思い出したことは、20代の頃から薬が好きではなく、人には自然治癒力が備わっているという思いを持っていたことです。「発熱は体が悪いものと戦っている証拠だから、解熱剤で熱を下げるのは逆効果になることもある」とどこかで聞いたことがきっかけでした。

そのような思いと、不妊治療で経験した鍼灸がつながり、東洋医学を学び鍼灸師になろうと決心しました。知的好奇心が強いこともあり、一生をかけて学び、誰かのお役に立てるのではないかと思ったのです。

鍼灸師になる!

こうして鍼灸師になる道を選び、3年間の専門学校生活を送りました。

不妊治療や離婚をした頃は福岡に住んでいましたので、環境を変えすぎないようにと、福岡の学校に通いました。その3年間にも私は何度か難聴を発症しました。ストレスがかかると発症するようです。

そして、繰り返す難聴とめまい症に罹った経験があることから、メニエール症候群と診断されました。今は、難聴を「少し休みなさい」という体からのシグナルだと捉えていますが、聴力が戻らなかったらどうしようと不安になることもあります。
学生時代の3年間は、新型コロナウィルスが世の中に出てきたころからマスク解禁までの3年間でした。

3密を避ける3年間でしたが、それでもアルバイトとして鍼灸院で働かせていただくことができました。そこでの経験から、鍼灸師として常に楽しく学び続け、貢献し続けるという姿勢を教わりました。
そして、3年間の勉強の後、鍼灸師の国家資格を取得しました。

卒業後は、高齢の両親の近くにいようという思いから関西へ移り住むことにしました。東洋医学や中医学を学んでいきたいという思いで就職活動をしていたところ、鍼灸院 天空の募集に出会えたことは、私にとっては大きな幸運でした。

夘野代表は、現代医学的なことをしっかり学び理解したうえで、古典中医学に基づく鍼灸をしていると知りました。是非とも先生の下で学び、根拠を持って患者様のお力になれる鍼灸師になりたいという思いで門を叩き、今に至ります。

これから

治療中
このように、私は活発な子、時には一人時間を楽しむ子として育ち、心の中では何が本当なのかわからないままでした。中学、高校、そして未だに、心を開いて人間関係を築いていくことに難しさを感じながら、学び続けています。

私はもうすぐ50歳になります。未だにこんな成長段階で恥ずかしいと思うこともあります。しかし、やはり私はこのようにしかできなかったのでしょう。

やっと最近になって、その人の意見もある、私の感じていることもあると、境界線を持ちながらどちらも受け入れることができるようになってきたところです。
そして、そのままでいいと、思えるようになってきました。本当に、やっと、です。今なら、子供の頃の活発な私と一人でいたい私のどちらも私でいいと思えます。全ての経験に意味がありました。これらの経験から、周りから見える私と内側の私が、どちらもあっていいと知ることができました。自分では気付かないうちに、体に無理が積み重なっていることがあることも知りました。子作りを難しく考えていた時期を経て、命を繋いでいくことの素晴らしさにも、遅ればせながら気付きました。それもこれも関わってくださった方々がいたからこそです。迷惑を掛けてきたことは忘れずに、それでも心から感謝しています。

まだ今は、道半ばです。
これからは、子供のころから抱えてきた両面性を、見方を変えることで、鍼灸師として活かすことができるのではないかと思っています。明るい部分では、あなたと明るく接していく形で、命について深く考えてしまう部分では、辛いお気持ちに寄り添い、奥深いところまで共感し考察できる力として活かしていけます。また、明るく見られるけれど実は色々と悩んでいるという方には、共感しながらお話を伺うこともできます。

様々な人生の段階で、お体でお辛いことや、心が思い悩むこともあるかと思います。
私の小さな経験なんて、本当にちっぽけなものでしかないほど、お辛いこともあるでしょう。
どうして私だけ、こんなに辛い思いをしなくてはいけないのかと、理不尽に思うこともあるかもしれません。

願わくば、そのお気持ちに寄り添い、お力にならせてください。
伴走させていただき、少しでも楽になっていただきたいです。
そして、あなたの心身が治ろうとする手助けをさせていただければ、と思います。

一緒に、お体を少しでも楽にしていきませんか。

心から安心して、笑顔になる時間が、一秒でも増えていきますように。

鍼灸施術費用

鍼灸内容回数値段
一般鍼灸治療
※院長指定の場合は、別途3,500円発生します。
1回6,500円
不妊鍼灸
※院長指定の場合は、別途3,500円発生します。
1回6,500円
美容鍼灸(美肌全身コース)1回9,500円
小児はり1回3,000円
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※免責事項:掲載された事例や患者様の体験談は個人の感想や成果によるものなので、全ての人への効果を保証するものではないことと御理解ください。施術による効果には個人差があります。